2019年08月15日

“イナーシャ”という難敵

片桐先生1.jpg

前回紹介した日本高血圧学会(JSH)が発表した高血圧治療ガイドラインの中で、JSHは日本の高血圧治療は未だ不十分であり、その要因として、「不適切な生活習慣」、「アドヒアレンス(患者自身が病気をよく理解し、服薬遵守を含めて積極的に自らの治療に参画する姿勢)の不足」に加えて「臨床的イナーシャ」を挙げています。

“イナーシャ”ってロシア系女性の名前みたいですよね。イナーシャ・クチンスカヤとか体操競技にでてきそう・・・・・・でもロシア語ではありません。“イナーシャ inertia”は「慣性・惰性・怠惰」などの意味をもつ英語です。JSHがわざわざこの言葉を使ったのは、注目してほしかったからでしょうね。もう、すぐカタカナを使って気を引こうとするんだから・・・・・・まあ、人のことは言えないけど。

高血圧治療におけるイナーシャは、「血圧が高いのに治療を開始しない、あるいは治療中で血圧が治療目標に達していないのに治療を強化せずに、そのままにしておく」という意味です。これは単に患者さんだけの問題ではなく、医師・その他の医療従事者、医療システム、医療経済の問題など、“複合的な治療の障害”と捉えることができます。

高血圧治療に限ったことではありません。診療の現場で生じるイナーシャは「臨床的イナーシャ」または「治療的イナーシャ」とよばれ、近年、生活習慣病の治療・管理で注目されている治療目標達成阻害要因です。これに関する論文が最も多いのが糖尿病領域で、数百編の論文が発表されており、高血圧領域や高脂血症領域がこれに次ぎます。要するに「科学的根拠をもったガイドラインに準拠すればタイムリーに治療を開始すべき、または治療を強化すべきときに、それをしない」ということです。糖尿病治療で言えば「薬物治療開始時」「薬剤追加時」「インスリン治療導入時」に起こりやすく(糖尿病と代謝誌 エルゼビア出版 2017年7月号)、決断の遅れは平均1年以上で下手をすれば最長7年を超えるとの報告もあります(ダイアベテス・ケア誌 2018年7月号)。

急性かつ放置すれば致死的な疾患では、治療開始時に過度に逡巡する人はめったにいません(少し逡巡する人は珍しくありませんが)。でも生活習慣病では“生活習慣の改善”から“薬物療法開始”へ踏み出す場合、心理的ハードルは相当高いのはよく理解できます。「できれば薬は飲みたくない」という言葉は良く聞くフレーズです。一方、医師側の薬を飲まないといけない理由は“科学的根拠”、言ってみれば“益と害の確率論”です。薬剤の有効性、有害事象(副作用)の発現は本質的には確率論なのです。この“心理的ハードルvs確率論”はしばしばすれ違います。

でも心理的ハードルは医師の側にもあります。服薬による益と有害事象を天秤にかけた時、医師(または患者さん)が有害事象をより重く見るタイプである場合、治療開始はともかく、医師の治療強化の決断のハードルは少し上がります。するとしばしば、「では、もう少しこのまま様子をみましょうか」ということになります。これも典型的な“イナーシャ”です。

もちろん“惰性で流す”“逡巡する”のと“真剣に考えたあげく決断を保留する”というのは、患者さん側にとっても、医師にとっても、姿勢としては全く異なるのですが、正解が“Go! or Wait”のどちらかであるのなら、結果でみると同じです。それがまた困ったことなのですが・・・・・・

生活習慣病の治療においては、道標=ガイドラインは、多くともたかだか数万人を対象とした学術論文(多くの場合は複数ですが)に基づいて決められています。だから目の前の患者さんにあてはまるかどうかは100%の確信を持っては言うことはできません。だからと言っていつも直観や経験、又は好みで決めるわけにもいきません。直観・経験・好みは、しばしば裏切るのです。

となると、ガイドラインによれば治療開始又は追加すべき、という状況になれば、その人固有の既往歴、脳、心、腎、末梢動脈の合併症を勘案して、Wait! のサインがなければGo! を選択する方が正解の可能性は高いと思われます。そして万一有害事象がでたのなら、そこでStop! をかければ、たいていの場合、間に合います。

「そろそろ薬をはじめましょうか?」「薬ですか・・・・・・」「気が進みませんか・・・・・・」「気が進まないわけじゃないですけど・・・・・・」「じゃあ、もう少し様子をみましょうか。」これがイナーシャです。やはりなんとなく倦怠感と無気力感がありますね。やはりこれはよくない場合が多いのです。ただ主治医と患者さんが、ちゃんと相談したうえでのWaitなら、それはそれでひとつの選択だと思います。

posted by みみずく at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記