
糖尿病はインスリンというホルモンの作用不足によって高血糖を来たし、さまざまな血管障害や臓器障害を生じる疾患です。自己免疫によってインスリン産生細胞そのものが破壊される1型糖尿病はさておき、糖尿病の大部分を占める2型糖尿病では、インスリン産生が障害されるというより、むしろインスリンが効きにくくなる(インスリン抵抗性)ことがインスリン作用不足の主因であるとされていて、そのため多くの患者さんで高インスリン血症が生じます。
一方、糖尿病ではずいぶん昔から“がんになりやすい”ことが経験的に知られていました。近年、糖尿病とがんに関する科学的根拠を蓄積されてきて、糖尿病はがんのリスクであること、その病態としては、細胞の増殖因子でもあるインスリンが高値となる、すなわち高インスリン血症が関わっているという意見が受け入れられつつあります(内分泌関連がん雑誌 2009、ダイアベィテス・ケア 2010)。事実、非糖尿病者でも肥満の有無にかかわらず、高インスリン血症がある人はない人に比べ、がん死亡リスクが1.9〜2.0 倍高いとする報告もあります(国際対がん連合機関誌 2017)。
では、なぜ高インスリン血症があるとがんになりやすいか、については未だ解明されてはいませんでした。ところが最近、京都大学生命科学研究科の井垣達吏教授のグループが“高インスリン血症による「細胞競合の破綻」”というユニークな切り口でこの謎の一端を明らかにしました(デベロップメンタル・セル誌 2020)。
自然界では常に個体間あるいは生物種間で、適者生存を目指した競合が行われています。もっともときには「イソギンチャクとクマノミ」のような“助け合い”にみえる共生・協調がみられることもあるのですが、基本は競合が世の習いです・・・・・・ところがこの競合、多細胞生物であるヒトの内部でも起こっていることが知られています。
生体内で“がん”という名の異常細胞は、あちこちで、しょっちゅう生まれています。幸いなことに、そのほとんどは成長することなく体内から除去されます。その多くは“腫瘍免疫機構を担当する免疫細胞”によって非自己と識別され、除去されると考えられているのですが、どうも安全装置はそれだけではないようです。
京都大学のグループはショウジョウバエを用いて、生体には細胞競合という、発生したがん細胞を除去する仕組みが備わっており、高インスリン血症がおこると、このがんに対する“セーフティーネット”が破綻して、がん細胞の増殖を許してしまうことを明らかにしました。ショウジョウバエではchico(チコ)遺伝子というインスリン受容体基質遺伝子があり、この遺伝子に変異がおこると高インスリン血症が生じるのです(ぼ〜としていると叱られそうな遺伝子です)。高インスリン血症を来すと、健常時では生じないはずのがん細胞増殖が起こるのです。さらにこの実験系にヒトの糖尿病の基本薬剤のひとつであり、インスリン抵抗性の改善作用を持つ「メトホルミン」を添加すると細胞競合が復活して癌増殖が抑制されるというきれいな結果が示されています。
細胞競合というのは、かりにがん細胞が出現しても、その周囲を健常細胞が囲んでいると、癌細胞は除去(細胞自殺プログラムが発動して“アポトーシス”を起こして細胞は死んでしまう)されるという現象です。異端者は許さない!という中世的な恐ろしさも感じないではないですが、生体の恒常性を維持するためには異端者は除くほかないのです。生体内では弱者の声を聞くとか、多数決で決める、というのもダメです。残念ながら生体でしばしば出現するがん細胞という異端者は弱者ではなく、個体を死に追いやるいわば“暴力革命勢力”になるからです。
ショウジョウバエとヒトが、全く同じシステムを共有しているとは言えないとしても、この高インスリン血症による細胞競合というがん抑制機構の破綻と、それによるがん増殖、さらにそれをメトホルミンで阻止できる、というのは、ショウジョウバエを使った基礎実験でありながら実臨床に近い非常に優れた研究だと思います。
やはり糖尿病臨床の中核は、食事療法+運動療法、加えて薬剤やインスリンを用いた血糖の適性管理、そして忘れてはならないのは高インスリン血症の是正、ということになるのでしょうね。問題はただひとつ。「言うは易し、行うは難し」ですよね〜