
うつ病というのは、本当にやっかいな病気です。典型的にはとくに誘因もなく抑うつ気分が持続し、悲哀感・無力感・自己否定感に苛まれ、睡眠障害(早朝覚醒や入眠困難)や体重減少などを来たします。病状が悪化すると、希死念慮から最悪の転帰である自殺に至ることも稀ではありません。米国の有名テキストでは一般人口における有病率は年間で数%、個人の生涯での発症率は13〜15%とされています。日本ではこの半分程度という記載が多いようですが、単に定義や診断機会の差かも知れません。
自殺という転帰はある意味、いかなる病気の死の転帰よりも悪いと思います。個人的な経験を言えば、今まで内科の初診外来で数人の方から希死念慮を聞き出して即日精神科に紹介して事なきを得たこともある一方で、ほぼ同数の全く予期しない朋輩・後輩の自死も経験しています。そのほとんどはうつ病であったと思っていますが、近親者には無念と後悔、そして心の傷が残ります。
うつ病の病因は明らかではありませんが、たぶん多因子・複合因子によるものでしょう。脳活動に関する生理活性物質の異常が報告されていることや多くの患者さんで明らかに薬物療法が奏効することから、脳内での生化学的異常が関連していることは確実です。有効な薬物療法があることが、なおさら“予期しない自殺”の無念さを大きくします。新たなうつ病の病因を明らかにできたなら、それが自殺を食い止める新しい治療に繋がるかも知れません。
その可能性のひとつとして炎症反応があります。炎症とは自己を守る免疫反応ですが、それが心血管病やがんの発生・進展と関係していることはよく知られています(動脈硬化誌 2017 、疫学年史2020、いずれもエルゼビア出版)。炎症反応の最も基本的かつ簡便・有用な血液検査にC反応性蛋白(CRP)があります。平常時の血中濃度は0.01〜0.3 mg/dlと微量なのですが、一旦感染が起こると免疫細胞からインターロイキン6(IL-6)という活性物質が分泌され、主として肝細胞でのCRP産生誘導により血液中の濃度は急増します。重症感染症はもとより、ありふれた扁桃腺炎でも20〜30 mg/dl以上(103倍のレベル)になることは珍しくありません。また例えば慢性関節リウマチのような非感染性の慢性炎症性疾患では病勢に一致してCRPの高値が持続します。
最近、このCRPあるいはその上位調節物質であるIL-6がうつ病・うつ症状と関連しているとする報告がみられるようになりました(気分障害誌 2013 エルゼビア出版)。平常時のCRPレベルは人によって異なります。すなわち感染や炎症が全くない状態では、CRPのレベルは遺伝的に規定されている可能性があります。となれば、心血管疾患やがんでは疾患そのものによってCRPがわずかに上昇している可能性もありますが、逆にベースのCRPが高いために心血管病やがんに罹りやすいとも解釈できます。CRPによって表現される炎症とうつ病との関係にも同じ事が言えるかも知れません。
昨年10月、ドイツ・ミュンヘンのマックス・プランク精神医学研究所のグループから“炎症、代謝失調とうつ症状の関連を詳細に分析する”というタイトルで論文が上梓されました(米国医師会雑誌・精神医学 2020)。マックス・プランク研究所(80以上の部門あり。精神医学もその一つ)は多数のノーベル賞受賞者を輩出した名門で、ノーベル賞受賞者にして第一次世界大戦で使われた毒ガスの生みの親となり“科学者の栄光と挫折”を地で行ったフリッツ・ハーバー博士とも関係が深いことで知られています。
著者らは最先端の研究手法であるゲノムワイド関連解析(GWAS)を使って、“炎症機構が個々のうつ症状と遺伝的背景を共有しているか否か、また炎症機構がうつ病の病因に関与しているか否か”という命題に取り組みました。GWASというのは、ヒトのDNA配列にはわずかな違い(遺伝子多型)があるので多数の対象で網羅的に遺伝子多型を検索して知見を得るという研究手法です。遺伝子多型の違いは病気・病態として表現される可能性があり、GWASによって一見関係がなさそうな病気・病態間の関連が見つかることもあります。
さて、結果ですが、高いCRPレベルと九つのうつ症状との間に遺伝的相関があり、またCRPを制御するIL-6産生状態が上方にセットされている(IL-6の過剰産生がある)ことが、うつ病の最悪の転帰である自殺に関与している可能性が示唆されました。著者らはIL-6を抑制することにより、自殺を防ぐ治療の開発も模索しているようです。
抗IL-6製剤は既に認可されていて、重症・難治性のリウマチ性疾患・炎症性疾患で保険適応になっています。でも仮にうつ病で抗IL-6製剤が有効だとしても・・・いつ、どんな状態のうつ病患者さんに、どれ位の期間投与すべきか・・・何人に投与したら一人の自殺が防げるか、そのときに重篤な副作用は何人にみられるか・・・などなど、ハードルは決して低くはありません。でも自殺という最悪の合併症の無念さを思えば、慎重に検討してみる価値はあるかも知れないと思うのです。