
「幸福とは何か?」これは人類にとって永遠のテーマです。この問題についての哲学的考察の端緒は、今から2,300年ほど前、古代ギリシャ時代にまで遡ります。当時の幸福論の系譜は二つあって、ひとつはエピクロスの唱えた「快楽主義(ヘドニア)」、すなわち望みや喜びを達成し、苦痛がないこと、今ひとつはアリストテレスの言う“生きる意味や目的を求めつつ、良く生きることこそ幸福”という「幸福主義(ユーダイモニア)」です。
幸福を感じているのと、不幸を感じているのと、どちらが健康に良いかといえば、常識で考えても幸福の方が体に良さそうだと、誰もが思うのではないでしょうか。でも好きなものを食べたいだけ食べて、好きなお酒を浴びるほど飲んで、「幸せだな〜(これはヘドニアです)」と感じることが健康に良いとはとても思えません。健康や疾病との関連を検討するのなら、“幸福”も少し深く掘り下げる必要がありそうです。
現代の心理学・精神医学では心の幸福は“心理的well-beingウェルビーイング”という言葉で表現されることが多いのですが、これを“今、喜び・楽しみを感じて心地よい”、すなわち「ヘドニア・ウェルビーイング」と、“生きる意味”や“生きる目的”を目指す過程に重きを置く「ユーダイモニア・ウェルビーイング」とを区別する考えがあります。
それにしても、このふたつの幸福の系譜が、現代においても疾病に関与する因子として研究対象になっていることに驚かされます。私自身の研究なんぞ、そのインパクト(もともとごく限られた“ムラ社会分野”においてですが)は発表して数年もすれば霧散霧消していることを思えば・・・・・・古代ギリシャ哲学、恐るべし・・・・・・
最近、順天堂大学と英国ロンドン大学、ケンブリッジ大学が共同研究を行い、動脈硬化の進展とヘドニア・ユーダイモニアとの関連を検討して、米国心臓協会・米国脳卒中協会の機関誌(ハイパーテンション誌 2020)に発表しました。
研究に用いたデータベースは英国公務員を対象とした「ホワイトホールU研究」と呼ばれるものです。実際に解析対象となったのは心理的ウェルビーイングの有り様を調査するCASP-19に回答し、基準時または5年後に大動脈脈波伝搬速度(PWV)を受けた男性3,466人、女性1,288人(平均年齢65.3歳)でした。
CASP-19は65−75歳の人の生活の質や心理的ウェルビーイングを測定するためのツールとしてインペリアル・カレッジ・ロンドンの研究者が発表した質問票なのですが(加齢とメンタルヘルス誌 2003)、「人生の喜び・楽しみ」「コントロール」「自律性」「自己実現」の四つの要素から評価します。喜び・楽しみはヘドニアに、残りの三つは生きる意味や目的、すなわちユーダイモニアに関連するとされています。またPWVは臨床検査として広く行われている簡便な動脈硬化の指標であり(動脈硬化伸展によりPWVが高値をとる)、心血管病のリスクを予測可能とされています(米国心臓学会・心臓協会機関誌 2014)。
さて、結果ですが、ユーダイモニア・ウェルビーイングのレベルが高い男性は低い男性に比べPWVが低く、その傾向は5年後にも持続しました。しかし女性ではこのような相関は見られず、一方、ヘドニア・ウェルビーイングのレベルとPWVの相関は男女いずれにおいても認められなかったとのことです。
この論文の順天堂大学の著者は、日本の高齢者の心理的ウェルビーイングと動脈硬化・心血管疾患の関連について、さらに調査を進めたいようです。彼らは高齢者が“生きる意味・目的をもって余生を送る”ことが、ひいては心血管病の予防にも繋がると期待しているのでしょう。私もそうであれば良いと思うのだけど・・・・・・
しかしこの手の研究、とくに幸福感と身体疾患関連の研究ですが、男性で有意の相関がでても、どうも女性では、“ポジティブデータ”がでにくい傾向があるようです。このあたりが気になります。また、この研究でもそうなのですが、どうしてもユーダイモニア・ウェルビーイングがヘドニア・ユーダイモニアよりも上位にあると思われているように見えます。でもね、CASP-19でもユーダイモニアの指標となっている「自己実現」、何かうさんくさくないですか!?これを提唱した米国の心理学者アブラハム・マズロー先生、すごく有名な方で、その業績は心理学を越えて教育学、経営学にまで影響を及ぼしたのですが・・・・・・
私は「自己実現」は言ってみれば幻想じゃないかな、と思っています。その幻想に振り回されている男性にはユーダイモニア・ウェルビーイングは意味があるのだけど、女性はつまらない幻想とは無縁で、ユーダイモニア・ウェルビーイングよりも、もっと大事なものが見えているのではないかという気がしてなりません・・・・・・でも見えていない男性は、この際やけくそで幻想を離れ、ヘドニア・ウェルビーイングへまっしぐら!というのはまずいかな、やっぱり。
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