2017年08月15日

旗色が悪くなった“適度の飲酒は健康に良い”という言説

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“適度の飲酒は健康に良い”という話は良く聞きますね。言っているのは当然お酒が好きな人で、実際の飲み方を見ていると“ほぼ全員適度超え”というのが率直な感想なのですが・・・・・・しかしこの“適度の飲酒は健康に良い”という言説の歴史は古く、かつ世界中で語られています。

日本で馴染みの深い「酒は百薬の長」という諺の出典は、ほぼ2,000年前の中国の歴史書「漢書」だというから驚きです。もちろん酒に関する諺は他の言語圏にもあって、英語圏では「良きワインは、良き血を作る」というのが定番です。ドイツ語圏では、やはりワインでなくてビールが登場、「ビールはおいしいだけではなく、適量であれば健康にも良い」・・・・・・さすがドイツ人はきっちりと条件付けをしていますね。これがフランス語圏ともなれば、“おいしいワインがあれば人生最高、医者いらず”などという根拠なき楽天主義のオンパレードという感じなのですが、面白いのは「食事と一緒に水を飲むのは、アメリカ人と蛙だけ」という箴言・・・・・・やっぱりフランス人はアメリカ人が嫌いなんだ・・・・・・

さて、医学の世界でも“適度の飲酒は健康に良い”という言説には相応の支持がありました。さまざまな疾患の有病率や死亡率を指標にして飲酒量で検討すると、確かに過度の飲酒は有害だが、“適量の飲酒をする人”は“全く飲酒しない人”と比較すると有病率や死亡率が低い、というのがその根拠になっています。ところが最近、この言説を否定するような論文が増えてきて、“適度の飲酒は健康に良い”説の旗色は悪くなっています。要するに全く飲酒しない人は表には出てこない他の健康的・社会的問題を抱えていて、それが結果を悪くしているのであり、適度の飲酒の益と判断するのは間違っている、ということです。それにわずかな飲酒でもある種のがんリスクを高めるという報告も複数でてきていますし・・・・・・現在、“適度の飲酒は健康に良い”が何とか土俵に残っているのは「虚血性心疾患に対する益」くらいかな〜また、最近は「飲酒と脳機能の関連」も注目されてきました。ここでも飲酒に対する風当たりは強くなっていて、今回はこのテーマに関する研究を紹介します。

さてその前に、飲酒量について考えるときに、まず「飲酒量の基準」を決める必要があります。最近は「単位(欧米ではunitまたはstandard drink)」という言葉が良く使われます。計算の元になるのは純アルコール(エタノール)です。アルコール飲料の量(ml)×アルコール度数(%)=純アルコール量(ml)で、これをエタノール重量(g)に換算するのには、さらに0.8を掛けることになります。日本では以前から習慣的に1単位=約20gエタノール(ビール500mlまたは日本酒1合)とされてきましたが、英国では1単位8g、米国は14g、豪州は10gとなっています。英国はだんだん厳しくなってきていて、“軽い飲酒”は週に1−7単位、“適度(moderate)な飲酒”が週に14―21単位としています。要するに英国基準での適度な飲酒でとどめようと思えば、1日に500mlの缶ビール1本が限界・・・・・・ということになります。

それでは最近報告された「適度な飲酒でも脳に悪影響あり!」という論文です(英国医師会雑誌 2017)。研究には「ホワイトホールU研究」という名前が付いています。ホワイトホールは有名なロンドンの官庁街、日本で言えばさしずめ「霞ヶ関研究」ですね。対象者は平均年齢43歳の男女550人で、30年にわたって認知機能を検証し、観察期間の最後にMRIを撮像する、という研究デザインです。

さて、注目の研究結果ですが、飲酒量が多いと脳の海馬(記憶などで重要な機能を果たします)の萎縮のリスクが増加し、英国基準で週に30単位以上の飲酒ならば、飲酒しない人に比べるとそのリスクは何と6倍となり、週に14−21単位の飲酒でもリスクは3倍になります。また、週に1−7単位という少量の飲酒でも、この海馬萎縮の保護効果は見られませんでした。残念ながら、少なくとも脳に関しては“少量の飲酒は体に良い”というわけにはいかないようです。

そうは言っても、飲酒は世界中で文化になっています。たぶんお酒好きの人は「海馬の萎縮が怖くて酒が飲めるか!シーホースでもホワイトホースでも持ってこい!」と息巻きそうで・・・・・・1976年にヒットした故河島英五さんの「酒と泪と男と女」という歌を覚えていますか? “つらいことや寂しいことを酒で忘れる・・・・・・”という意味の歌詞だったですね。今回紹介した研究が正しいのなら、確かにお酒で嫌なことを忘れるのは可能かも知れません。もっとも、楽しかったことも忘れてしまいそうだけど・・・・・・
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2017年08月01日

地震予知と疾患予後推定を比べてみると……


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去る5月17日、「ネイチャー誌オン・ライン版」に目を引くコレスポンデンス(論文についての意見や、注目すべき論点を述べた通信)が掲載されました。著者は3月で東京大学教授を退官された地震学者のロバート・ゲラー博士、大阪では有名ですが、東京のマスコミ(とくにテレビ)では無視?されている方だそうです。タイトルは「Seismology: Japan must admit it can’t predict quakes(「地震学:日本政府は地震予知が不可能であることを認めなければならない」)です。ゲラー博士は、科学的根拠も実績もない地震予知や大地震周期説への固執、ハザード・マップ作成を止め、国民に地震予知が不可能であることを率直に伝え、特定の地域の危険に言及せずに、全国で堅実な科学的根拠に基づいた具体的対策をとる方に方針転換すべきだと述べています。博士は6年前にも同様の主張を「日本の地震学、改革の時」と題してやはりネイチャー誌に投稿されています(“Shake-up time for Japanese seismology” Nature 13 April 2011)。

もちろん地震学は私の専門外ですが、30数年前の日本海中部地震から最近の熊本地震までの大きな地震はすべて予知できていなかったこと、東日本大震災では福島原発が壊滅的打撃を受けてもなお、“想定外”とのたまったこと、などを考えるとゲラー博士主張もむべなるかな、と思えます。おまけに地震予知に年間100億円!の予算がつぎ込まれていると聞くと……私の研究にも、もうちょっと出してほしかった……

むろん地震予知に真剣に取り組んでいるたくさんの専門家の方々の努力は認めます。しかし一生懸命にやればそれで良いのか、という問題があります。国家プロジェクトなら、やはり実績を重視すべきでしょう。ましてや国民の命がかかっていますので、「頑張っているのだから」だけでは済まないと思うのです。

地震学は何千年、何万年、あるいはそれ以上の地質学的時間軸で変化をみる必要がある学問でしょうし、信頼できる文書記録はせいぜい過去2,000年分程度、質の高い科学的データの蓄積はおそらく数十年分くらいではないでしょうか。これを医学の世界と比べてみると、私たちはわずか数年〜数十年の時間軸で疾患の経過や最終的な結果(これを「予後」といいます)を予測することを試みます。最新の検査技術を駆使して良質のデータを集めることもできますが、それでも個々の患者さんの予後を正確に把握することはとても難しいです。大きな患者集団であれば、より正確な予後予測が可能になるのですけど・・・・・・そりゃ、地震予知が当たらなくても無理ないな〜と思えてしまいます。

たとえば東南海大地震、地域によっては今後30年間で起こる確率は70%!とか言われていますけど、この確率、乳がんの約5%強を占める「遺伝性乳がん・卵巣がん症候群」の生涯がん発症確率とほぼ同じです。この確率は世界中の臨床症例で確認されていますので、予防的乳房切除や卵巣・卵管切除さえ検討されることになります。こう言ってはなんですが、“今まで当てたことがない人”が特定の地域に、こんな高い確率を高々と宣言して良いものだろうか、と疑いたくなります。最近の大地震は熊本とか、起こる確率の低いはずのところで起こっているのに・・・・・・

勝手な想像をすると、地震予知の研究では、“地震発生に関係があるかも知れない膨大な変異”が観察されるのだろうと思います。その中から予知に結びつく変異を抽出して分析しなければなりません。ここで私が連想するのは、「がん遺伝子変異」です。がん細胞が遺伝子の突然変異で誕生し、不死性や増殖能を得て、ついには進行がんを形成することは、今や疑いのない事実です。ところが、がん細胞の突然変異は驚くほどたくさん起こっていて、実際にがん発症に結びつく変異(これを“運転者変異 driver gene mutation”といいます)はごく一部であり、大多数は直接がん化には結びつかない“乗客変異 passengers gene mutation”であることが分かってきました。運転者変異は約200個、乗客変異は約20,000個が知られています。そして運転者変異が3つ起ると進行がんに至るという考えがあります(“3ストライク−アウト・セオリー”:ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メデシン 2015)。

ひょっとしたら、地震予知の世界では、まだどの変異が“運転者”なのか“乗客”なのか分かっていないのではないかと思うのです。それは仕方のない事だと思います。ここはやはりゲラー博士のおっしゃるように、日本中のみんなが防災意識を高めて準備をして、政府もどこで起こったらどうなるのか、どうしたら被害を最小にできるのか、という現実的な対策をとるほうが理にかなっています。いやしくも科学というのならそれなりの“根拠と実績”が必要です。“根拠のない推論”はよく言っても“大胆な仮説”、悪く言えば“単なるヤマカン”です。


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2017年07月15日

“終末期医療事前指示書問題”

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今年の4月、京都市が「終末期医療に関する事前指示書」を公表し、配布を始めました(ネットでも公開されています)。人生の終末期の医療について、人工呼吸器、胃ろう(食事が摂れなくなったときに、生命維持のために胃に留置チューブを埋め込んで食事を注入する処置)、看取りの場所など、具体的な項目について、市民があらかじめ意志表示・希望を書式に残せることを目的にしたものです。しかし公表するやいなや、いくつかの団体や識者から「人工呼吸器を使って生きながらえている弱者の生きる道を難しくする」等という非難の声が上がり、撤回を求める動きも起こりました。

この京都市の指示書、簡明ではありますが、内容は修正・撤回は自由であることを明記するなど、押さえるところは押さえていて、私には、裏に“よこしまな意図”があるようには思えません。ただ、終末期や尊厳死など、人の死生観に関わる部分と医療の接点では、言葉の意味内容の混乱やイデオロギーに基づく人それぞれの独自解釈がまかり通っていること、また、そもそも医療に関する自己決定権や代理決定などの概念が主として米国からの“丸ごと輸入品”であって必ずしも日本の文化に馴染んでいないこと、加えて終末期医療に関する日本の法体系が全く存在していないこと、などの理由により、まともな議論さえ難しいのが現状です。

この問題の根本的な難しさは、人はそれぞれの死生観を持っていて、それを重んじた“尊厳ある死に方”をしたいと思っている人は少なくないのでしょうけど、それを明瞭な形で意志表示、たとえば自身が望む具体的な医療内容(living will)や、それに加えて正式に代理人を指定する文書(advance directives)を記載し保存している人は稀だということにあります。従って “肝腎の終末期医療について意志表示すべき時に、身体的理由で意思表明自体が物理的にできなくなっている”ことが非常に多いのです。

法体系で厳密に担保されているわけではありませんが、大原則は「自己決定権はオールマイティ」です。少なくとも医学的に理性的な判断が可能であると判断される状況での本人の意志はよほどの事情がない限り最大限に尊重すべきです。ところが本人の意志が確認できない場合、医療者の患者さんのご家族も困難に直面します。もちろんこのような場合の行動原則はないわけではありません。最も単純な選択肢は“生命を少しでも長らえるために、できることはすべてやる”というものです。この方法の問題点は、“医学的というより情緒的に過ぎる”であることです。

もうひとつの選択肢は“誰かが患者さん自身に代わって決定する”という方法です。よく行われるのが、配偶者、親子など親しい人が決定権を行使する「代行決定(substituted judgment)」です。適当な代行者がいないときには、“理性的な人なら、おそらくこのように決定するであろう”という原則に従って関係者が協議して決定する「受益者最善利益原則(best interests)」という方法もあります。しかし日本では、ここで問題になるのが、このような「代理決定」自体に法的根拠がないことです。ですからつい、“できることは何でもする”という方向に流れてしまいます。それにもし、親しい人の間で対立があって双方の代理人たる弁護士の方たちが登場!したりすれば、もう、めちゃくちゃ混乱します(私も実際に経験しました。それなりにエキサイティングでした。)。

どのような終末期医療を望むか、ということは人生最後の、そしておそらく最大の決断です。これを元気なときに考えて意志表示をしておくことは簡単ではないかも知れません。全州で法整備がなされている米国でさえ、事前指示書を準備している人は少数派ということですから。でも前述の如く、実際に回復不能な病気になってしまうと、意志表示のチャンスを逃してしまうこともよくあるのです。

現代の臨床倫理のグローバル・スタンダードに照らすと、医療者側が守るべきは、@患者さんの自己決定権の尊重とそのためのインフォームド・コンセント(説明と同意)、A最大の恩恵をもたらす治療・ケアの提供、B害を与えないこと、害が益を上回る治療・ケアの回避、C公平・公正であること、の4つです。しかしこれら4つの項目を確実に達成するには、患者さん自身の人生観・死生観・価値観・哲学を知る必要があります。たとえば“恩恵”ひとつとっても、その価値は人それぞれが決めることですから。

大きな病気であればあるほど、患者さん個人の価値観が重要になってきます。人には“他人に知っておいてもらいたい自分の心”がいくつかあるでしょうが、“自身の望む終末期医療”はその中でも特別のものだと思うのです。
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